香道の黎明
香道が次第にその形を整え、確立されていったのは、鎌倉時代の末期から室町時代にかけてであったと考えられます。そして、香道に限らず茶道・花道・連歌・能楽など、日本の心を代表する芸道の多くが、ほとんど時を同じくして起こっています。
世情が極めて不安な戦乱の時代に、なぜこの様なことが起こり得たのでしょうか。
日本的な芸道とは、混沌とした日常の現実から逃避したいと言う心情が産み出した理想の世界だったのでしょうか。
筆者の私見では、当時の文化人たちは、日常から逃避したのではなく、日常の中に、人間として本来追究するべき普遍の真理を求めようと努めたのです。そうでなければ、これらの芸道に「型」が生まれることはなかったと考えるからです。
型とは単なる形ではなく、芸道の深奥に在る本質を包み込む空間であり、器の様なものだと思います。型の修練を続けた果てに垣間見える、型を超える何かが、その道の真髄と言われるものに相違ないと想像しています。
さて、平安時代に薫物合が隆盛を極めたことは以前に触れましたが、この時代、すなわち香道が確立される途上の東山文化の時代には、薫物合と共に香木をもちいての香合が盛んに行われるようになりました。諸芸道の後援者であった足利義政自身も、文明十年十一月に「六種薫物合」を、そして同十一年五月には「六番香合」を、いずれも東山泉殿に於て主催し、その記録は『五月雨日記』に残されています。
香合がどの様にして催されたものか、その具体的な例を挙げての説明は次号に譲りますが、香木の香気を十分に観照すること、そして、他の香木の香気との比較検討を行うこと、さらに、その結果を「判詞」と言う形で言葉に表現すること、この三点が、後に香道の確立へと繋がってゆくと言う意味から、大変に重要な要素であったと評価されるのです。