六種薫物合(文明十年)
『源氏物語』に描かれた薫物合は、平安朝の貴族社会と言う環境の下、ややもすれば社交辞令的な、興趣本位の傾向が感じられるものでした。実際にどの様な方法で行われていたものか、記録が現存しないため定かではないのですが、恐らく、梅枝の巻に細かく描写された内容と、大きな相違はなかったものと想像されます。
時代は下がり、足利義政の頃、邦高親王が著した『五月雨日記』の中に、「六種薫物合」の記録が残されていることは前号で触れました。残念なことに、このときの出席者が誰と誰であったのかは不明ではありますが、その記述からは、「薫物合」から「香合」へ、更には「組香」へと発展し、やがて香道が確立されてゆくという過程の中核となる内容を、窺い知ることが出来ます。
その一部を、ほぼ原文のまま引用してみます。参加者が、それぞれ作り上げた薫物に工夫を凝らした銘を付け、その優劣を、衆議に依り判定したものです。
「六種薫物合」 一番
左 なつ衣 勝
右 松風
左の薫物の香いひしらぬ匂ひに侍る、とおくかほりすがりまでもなつかしく侍なり。右の薫物の香いにしへ の侍従などやうに聞え侍り、にほひすがりまであしからず。然りといへども左の匂ひには及びがたかるべし。 左夏衣は、夏衣春におくれて咲く花の香をだににほへ同じかたみに、よろしくも名づけられたりと一同に申す、上手のしわざと申し侍る。 右松風は、住吉の里のあたりに梅さけば松風かをる春の曙、といふにて名づけられたり。梅の歌にて薫物になをつけたる、古より類ひも多き事に侍る、等類もあるべきと各申し侍りしを、作者陣じ申されけるは、梅の花と申すも梅が香とと申すも古き名に侍れば、それをもとに用いて、梅さけば松風こほると申すをつづきよろしきかなと思ひ給ひて名づけ侍るなりと申さる。其時各尤なり、殊の外に面白し、さては名だにまくべきにあらず同じ品なるべし、薫物のか、左勝りたるにより、一番の左勝なりと定められ侍りける。」
(注)すがりとは、焚き終わる頃の香りの意味。夏衣の歌は壬二集、松風の歌は拾玉集が出典。
参加者の苦心は、薫物の製法にとどまらず、その香りの内容を「証歌」に裏付けられた「銘」に依って端的に表現しなければならないということ、すなわち、嗅覚がもたらす感性と古典文学に表される情念とを融合させるという作業にまで及んだのです。