志野宗信家名香合(文亀元年)
薫物合が、沈水香木をはじめとする数種類の香料を調合した薫物を用いたのに対して、香合は、一木の沈水香木のみを用い、その優劣を競ったものでした。
参加者(連衆)が持ち寄った香木が全て銘を付された銘香であった場合、特に「名香合」と称されました。その最も著名な例が「志野宗信家銘香合」、別名「文亀の香合」でした。
文亀元年(一五〇一)五月二十九日、主催者である志野宗信邸に集まった連衆は、牡丹花肖柏、帰牧庵玄清、咲山軒大碣、二階堂行二、松田丹後守長秀、池田左京亮兼直、波々伯部兵庫助盛卿、内藤内蔵助元種、志野祐憲(宗温、宗信嫡子)の面々でした。何れも当時を代表する文化人・識者として名高い人達であり、宗信の交友関係の広さを示しています。
十人の連衆は、各々二種ずつの名香を持ち寄り、計二十種を二種ずつ十番に組合わせて優劣を競いました。実際には、「中川」という香木が大碣と宗信の二人から出されたので、計一九種だったのですが、それ等は全て「六十一種名香」に数えられた、素晴らしい名香でした。
十番勝負の組合せと判定の記録を、次頁にまとめてみましたので、参照して下さい。
組合せごとに先ず「左」の香を炷き、全員に回し、次に「右」の香を炷き、やはり全員に回します。どちらの香木も、誰が持参したものか、また何という香銘か、明らかにされていません。両方を聞き終えた後、連衆は各々自分がどちらの香木を支持するかを表明します。そこで初めて、香銘と出香者が知らされるのです。その上で、連衆の衆議によって勝負が定められ、記録に判詞が添えられたのです。
一説では、この判詞は肖柏の筆によるものとされ、後日、三條西実隆公が跋文(奥書)を添えています。紙面の都合上、第十番の判詞と、それに続く跋文の一部のみを、ほぼ原文のままいんようしてみます。
「左の香ほとりまで匂ひしは、孤ならぬ徳もあらはれて珍しきやうに侍りき、花の雪こそかたののみ野の曙ならましかば、彼の三品のたまたま判者にまかりあたる事を、例によせてとしりし給ひしまねびをも申したく侍れど、方人もこよなく有りしかば力及ばず侍りし。
文亀の初めのとし五月下の九日風流の人々夏の日くらし難きなぐさめにとて、薫物合などのためしを思ひ出て、宗信の宅にして、名香の名をあらはさず戦はしめ侍りけるになん。」
「隣家」も「花雪」も、義政公所持の名香でした。判詞の前半は『論語』を、後半は三位俊成卿の和歌を典拠にしつつ、判定の微妙ないきさつが窺い知れる内容となっています。
この名香合の歴史的な重要性は、幾つかの観点から、極めて高く評価されると考えられます。一つには、稀代の名香を、その銘を伏せて、勝負の場で深く味わい、聞き比べることによって、一木の沈水香木の香気を探求することの意義が確立されたであろうこと。更には、香合の作法も定められたこと。そして何よりも、香道志野流の祖となる志野宗信、香道御家流の祖となる三條西実隆公をはじめとする、足利義政公を取り巻く当代一流の文化人達が、香道の成立という未然の必然に向かって、確かな交流を重ねていたことの証であることです。