梨子地遠山雲錦蒔絵眞手前飾付
香道具は、二種類に大別されます。端的に表現すると、 香道の手前に用いられる物と、個人的な趣味で愛好される物とに分けられます。それらの相違は、極めて重大と言えます。ここで採り上げて行く香道具は、総て前者に属するものとご理解下さい。
香道の本質が何処に在るかを論ずることは、今回の目的ではありません。いずれ機会があれば、お話したいと思います。
香道は、決して普遍的な遊びの呼称ではありません。御家元・御宗家がおられて、流派に属して初めて成り立つ独立した世界での出来事なのです。そこに足を踏み入れなければ、何も起きることはありません。
それぞれの流派が創り出す世界には、独自の約束事が存在します。抽象的に表現すれば、流派の違いによって、使用する言語さえも異なるのです。それらの規範を律するのは、代々継承された御家元・御宗家が持つ確固たる基準であり、その神髄は、皆伝の伝授を受ける時まで、詳らかにされるものではないのです。
従って、香道具に要求される最低限の資質は、御家元・御宗家の基準を満たしていることと言えます。それらは、秘伝の「雛形寸法書」に伝えられており、表に出ることはありません。
堅苦しい前置きは、これくらいにしておきます。
今回お話する道具は、平安遷都千二百年を記念する年に完成したものです。製作を始めたのは、その三年ほど前のことでした。当時は、香道御家流第二十二代宗家三條西堯雲宗匠がまだご健在で、ようやく出来上がった時には、たいそうお喜び戴きました。使い初めをいつになさるのか、密かに楽しみにしていましたが、記憶に間違いが無ければ、それは惜しくも急逝されたのちに、新宗家三條西堯水宗匠が継承披露式を御殿山の開東閣にて執り行われた際のことでした。個人的には、そのような大切な機会にお使い戴ける嬉しさと、先代御宗家にお使い戴けなかった切なさとが錯綜して、複雑な思いで天下の名香『蘭奢待』の馥郁たる香気に包まれていたことを覚えています。
漆塗りの道具を製作するには、先ず優秀な指物師に恵まれなければなりません。指物師に要求されることは、第一に、樹を愛することです。使用する材料に対して 完璧な知識を持つことが、最低の要件です。製作する道具の内容に応じてどんな木材を選ぶのか、どの部分を、どのように用いれば将来に狂いが生じないのか、反り止めは如何にして施せば良いのか。それら総てを的確に判断し、更に、漆を塗り重ねた結果どれくらいの厚みが増すことになるかを計算し尽くして、その上で初めて組み上げることが出来なければ、使い物にはならないのです。そのような指物師は、もはや数えるくらいしか居られなくなっています。
次に大切なのは、塗師です。どんなに素晴らしい蒔絵師が居られても、下地が完璧に塗られていなければ、その技を発揮することは叶わないからです。梨子地に仕上げる場合は、尚更です。金の粒を下地に蒔いて、さらに漆を塗り重ね、その塗面を炭で丹念に研いでいきます。その工程は、金の粒が一様に光り輝くまで続けられるのですが、その際に、少しでも下地に斑があれば、塗面から顔を覗かせることが出来ない金の粒が残ったり、反対に、研ぎ過ぎて破れてしまう(蒔いた金が、剥がれ落ちてしまう)部分が現れたりしてしまいます。綺麗な梨子地に仕上げるためには、鏡の様に研ぎ上げられた、完璧な平面が要求されるのです。
最後の加飾は、蒔絵師の仕事です。今回の作品は、「遠山」を表すことが最大の使命でしたが、実は、「遠山」ほど困難な柄行は、そう多くないのです。梨子地を施した面から徐々に徐々になだらかに盛り上がって、品良く、優しく山際にまで至らねばなりません。技術的な用語を使うと、「肉合研出(ししあいとぎだし)」と呼ばれる技法以外には、その優美さを実現することが出来ません。
「銀葉盤」に貼られた十八枚の「菊座」は、夜光貝で彫って貰いました。一般的に用いる白蝶貝に比べて柔らかく、光り方にも控えめな美しさが見られます。貝を彫る職人さんも数少なく、この時は、根付作りの名人にお願いしました。その世界では高名な方ですが、私が、いわゆる「作家先生」に仕事をお願いすることはまずありません。道具に要求される基準を満たしつつ、最大限にお施主の意向を反映することが目的ですから、その意図を忠実に反映する技量を持ち、心を籠めて仕事を全うしてくれる職人でさえあれば、名前など問う必要が無いからです。
名前を売り出そうと努力するのではなく、愚直にただ自らを磨き続けようと精進する職人の志が、正当に報われる世の中であって欲しいと、心から願わずにおれません。