源氏の香り
香道が成立する過程について、時代を追って簡略にままとめてゆきたいと思います。
仏教の伝来に伴い、香木をはじめとする何十品目にも及ぶ天然香料が、日本にもたらされました。当時の人々にとって、異国の文化に触れることはさぞかし新鮮な驚きであったことと想像されます。やがて、遣隋使・遣唐使を中国に派遣し、より積極的に、より深く吸収するべく多大な努力が払われました。
これら飛島から奈良にかけての時代においては、香りは主に宗教的儀礼に欠くべからざるものとして、仏教の経典に則って用いられるにすぎなかったといえます。外来の文化を受容し、適応させる過渡期を経て、日本独特の文化として雅やかな香りの世界が開花するのは、平安時代まで待たねばなりませんでした。
王朝時代の文化を支えた美意識は、襲色目と薫物とに集約されます。
薫物とは、香木(主に沈香)をはじめ丁子・大茴香・甘松・麝香などの香料を粉末にし、調合して蜂蜜等で練り固めた香のことで、部屋はもとより、衣服や髪、手紙にまで焚き染め、自己も張の重要な手段として用いられました。
このような香りの用い方には、西洋の香水に通うものかありますか、各人が自分にふさわしい、あるいは自分らしいしこ感じる香りをイメージし、自ら原料を吟味して調合し、製法にも独自の工夫を凝らしたという点において、その徹底ぶりは西洋人の及ぶところではありませんでした。
花の色や香り、季節の移ろい、風の音や虫の声にも「もののあはれ」を覚えた日本人の感性は、異国からもたらされた香りに出会うことによって更に研ぎ澄まされ、遂には『源氏物語』という世界的な古典を誕生させたのでした。
その梅枝の巻に、薫物の香りの優劣を競い合う薫物合の様子が描かれています。
東宮に入内する明石の姫に持たせる香を選ぶため、源氏は紫の上・花散里・朝顔の君・明石の上の四人に.薫物を作るよう命じます。紅梅の咲く二月十日、四人がそれぞ丹精して作り上げた薫物計七種が届けられ、源氏は螢宮を判者に選んで判定を任せます。
一つ一つを丁寧に聞き較べた螢宮でしたが、結局のところ、紫の上の香は「はなやかに今めかしう、すこしはやきこころしらひをそへて、めずらしき薫り」、花散里の香は「さまかはり、しめやかなる香して、あはれになつかし」、朝顔の君の香は「心にくく、しずやかなる匂ひ」、明石の上の香は「世に似ず、なまめかしさをとりあつめたる、心おきてすぐれたり」、そして源氏の香を「すぐれてなまめかしう、 なつかしき香なり」と、いずれも褒めてしまい、ただ一を選ぼうとした源氏の期待に応えられませんでした。
このような薫物合は、歌合・花合・貝合等とともに.この時代の雅やかな遊びを代表するものであり、また、後世に香道が成立してゆく上での、重要な要末でもありました。
一方、『源氏物語』が香道に与えた影響もまた、計り知れないほど大きいものでした。それ等について、次号でもう少し詳しく触れてみたいと思います。