眞塗菱形盆
次号を以って連載に一区切りをつけさせて戴くことを編集者にお願いし、さて、今号にてどの香道具を採り上げるか、考えました。私にとって、香道具づくりは単なる〝商品製作〟とは意味合いを異にするものがあり、多くの場合、施主との親交を起点としてそのご要望を理解し、実現のために必要な道筋を調え、人材を探して試行錯誤するという、言わば未知なる世界に足を踏み入れる行為であったと思います。それらの行為は、香木の山の中で生まれ育った単なる〝香木好き〟に、ものづくりに係わる様々な知識と得難い経験を授けてくれるものでした。まだまだ未知の分野が在るでしょうし、知り得た分野には更なる奥行きが在ることと思いますが、世の中にそのようなものが存在し、そしてそれを極めようと努める職人さんたちが居られるということに、心から尊敬と感謝の念を捧げます。
思案の挙句、一見して何の変哲もない、 しかも香道具と言うよりは茶席で聞香炉を載せおくための、菱形の盆を採り上げることにしました。最大の理由は、素朴極まりない形状の中に、不可能を可能にしてみせるという職人さんたちの意地と努力が隠されている好例と思えるからです。そして、明らかに困難を伴うであろうことを重々承知の上で調製を依頼された施主の存在も、有り難いものと感じるからです。
施主は、香道志野流の稽古に意欲的に取り組む好青年で、若年ながら茶道を通じて塗り物・指物・焼き物にとどまらず紙・筆・墨・布などにも造詣が深い、現代では数少ない〝「数寄」の境地を逍遥し得る〟お方です。
柔らかい物腰から発せられた要望は、驚くべきものでした。『宗名披露の席に用いる聞香炉を載せるために、菱形の盆を眞塗にて作りたいのです』とまでは良かったのですが、ご自身で用意された詳細な仕様書を拝読して目を疑ったのは、仕上がり寸法が「厚さ二㎜」であり、更に「裏面には畳摺りを設けない」との条件が付されていることでした。
眞塗と呼べる仕事をするには、少なくとも六回に亘って漆塗りを繰り返す必要があり、塗面の厚さは一㎜を超えます。逆算すると、木地は厚さ一㎜以内に作らなくてはなりません。しかも畳摺りを設けないということは、底の厚さも二㎜に仕上げるということです。あたかも河豚や平目の薄造りよろしく向こうが透けて見えるような木地を塗り重ねて、果たして形状が保てるものかどうか、それ以前に木地そのものが指物として完成できるのかどうか、想像すら出来ませんでした。
不可能と思える一連の工程を任せられるのは輪島の塗師屋しかないと判断し、とりあえず相談してみました。信頼する親方の最初の言葉は『このお施主さんは、塗り物のことを知っていてこんな無茶を要求されとるんかね?』というものでした。この世に存在し得ないだろうと思えるものが存在するならば、それはきっと美しいに違いないと考える私は、『もちろんです』と答えました。
例えようも無く美しいものを道具として用いたいと考える施主と、有り得ない道具を作ってみたいと夢見る私、そしてそれらの要求を「作り手への挑戦」と受け止め見事に応えようと意地と意気を感じる親方との三者が揃い、稀に見る困難な道具づくりが始まりました。
先ずは木地。最初は檜、次に翌檜(あすなろ)を試しましたが、十分に寝かせてあった素材にも拘らず、反りと捩れが生じて断念せざるを得ませんでした。余りにも薄いため、空気中の僅かな水分を吸収して動くのです。最終的には、杉の柾目を使用しました。
木地組みにおける難点は、薄過ぎることにより素材に強度が出ず、また端食(はしばみ)(切り口に縁取りの材を取り付け、隠すと共に反りを防ぐ)を設けられないことにありました。つまり、指物としての技法が使えないほど木地が薄いのです。 底板と側面の板とを接合するには、杉で極細の釘を製作し、計十二本を挿し止めて漆で接着しました。
木地の強度を補うため、接合部には極薄い木綿を用いて布着せを施してあります。
下地塗は、木地固めに至るまでに計五回塗り重ねてあります。この工程では刷毛は使わず、檜の箆(へら)を用います。木地の大きさや角度に合わせて檜を削り、腰の強さを調整したものです。対象となる木地が薄いため、木地を手に持って塗ることは出来ません。当て物を用いつつ、慎重に進められました。
下地塗が完了した時点で研ぎ上げ、中塗を二回行います。更に研ぎを行ない、仕上げの上塗を施します。
この工程で怖いのは、接合部の内側、つまり隅に漆が溜まることです。側面や底面に塗った漆に少しでも余分があると、垂れて隅に集まります。塗面に生じた漆の厚みの差は、僅かであっても、乾こうとする際に力の引っぱり合いを生じてしまい、「縮み」と呼ばれる現象、すなわち塗面に波打つような歪ができたり、反りが起こったりする原因となるのです。隅出し刷毛を使い、角の内側に溜まる漆の量を予測して予め刷き取る作業は、豊富な経験によって体得された職人さんの勘に頼る他ありませんでした。
少しでも力を入れると、忽ち割れてしまう木地たち。何枚もの中から生き残り、合計八回に亘る塗りに耐え切った奇跡的な一枚は、輪島の職人さんたちの心意気を象徴するとともに、道具づくりの将来に展望をもたらす道標となりました。